黒い背景からすっと浮かび上がる横顔の貴婦人。
腕の中では、真っ白な毛並みの動物が、主人と同じ方向へと首を伸ばしています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《白貂を抱く貴婦人》は、《モナ・リザ》より少し前、ミラノ宮廷で活動していた頃に描かれた肖像画です。モデルは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾として知られる若き才女セシリア・ガッララーニだと考えられています。
この作品は、レオナルドが描いた女性肖像の中でも特にドラマ性の高い一枚です。
上体をぐっとひねり、何かに耳を傾けるかのような視線。その動きと呼応するように身体をよじらせる白貂。二人の視線の先には、絵の外にいる誰かの存在が暗示されます。
この記事では、作品の基本情報を押さえたうえで、モデルの人物像、白貂に込められた象徴的な意味、レオナルドらしい光と質感の描写、そしてポーランド国宝としての歩みまで、順番に見ていきます。
有名度で言うと《モナ・リザ》に負けるけど、“好きなレオナルド肖像ランキング”だとこっち推しの人めっちゃ多いよね。
分かる。ちょっと振り向いた瞬間を切り取ってる感じが、映画のワンシーンみたいでずっと見ていたくなる。
《白貂を抱く貴婦人》
まずは簡単に作品の情報を紹介します。

・作品名:白貂(しろてん)を抱く貴婦人
・作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452–1519年)
・制作年:1489〜1491年ごろ、レオナルドの第1次ミラノ滞在期に制作されたと考えられています。
・材質・技法:クルミ板に油彩。レオナルドが好んだ木材で、同時期の《ラ・ベル・フェロニエール》と同じ木から切り出された可能性が指摘されています。
・サイズ:縦約54.8cm × 横約40.3cm。膝上までの半身像としてはやや小ぶりです。
・所蔵:ポーランド・クラクフ、チャルトリスキ美術館。ポーランドの重要文化財として国が所有しています。
・主題:モデルはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾セシリア・ガッララーニ。腕に抱く白い動物は「白貂(エルミン)」で、複数の象徴的意味が込められています。
サイズ感だけ聞くと、意外と“持ち歩けそう”なくらいのコンパクトさなんだよね。
それが今やポーランドを代表する国宝クラスだから、歴史の積み重ねってやっぱりすごい。
<作者についての詳細はこちら>
レオナルド・ダ・ヴィンチを解説!代表作と発明、性格、名言に迫る
モデルの正体|セシリア・ガッララーニというミラノ宮廷の才女
《白貂を抱く貴婦人》のモデルは、文献と宮廷記録からセシリア・ガッララーニとほぼ特定されています。
彼女は名門ではあるものの、それほど裕福でもない家に生まれましたが、若い頃から詩やラテン語に秀で、ミラノ宮廷でも「教養ある美貌の持ち主」として知られていました。
十代半ばでルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾となり、1491年には彼の子を出産します。ちょうどその頃、ルドヴィーコはエステ家のベアトリーチェと正式に結婚しており、宮廷の人間関係はかなり複雑でした。ベアトリーチェはやがてセシリアの存在を疎ましく思うようになり、ルドヴィーコは彼女に領地と結婚相手を与えて宮廷から遠ざけます。
つまり、この肖像画はセシリアがもっとも寵愛されていた時期の姿をとらえたものだと考えられます。
知性と若さを備え、政治的にも微妙な立場にあった女性を、レオナルドは「ただ美しいだけの愛人」としてではなく、精神的な強さと内面を感じさせる人物として描き出しました。
宮廷の恋愛ドラマのど真ん中にいた人がモデルって聞くと、一気に“人間くささ”が増すよね。
うん。背景を知ると、このちょっと緊張したような表情も、“ただのポーズ”じゃなくて人生の一瞬に見えてくる。
白貂が語るメッセージ|純潔、君主、そして言葉遊び
タイトルにもなっている「白貂」は、この絵を読み解くうえで欠かせない存在です。
実際の白貂よりひとまわり大きく、細長い体に鋭い目をしたこの動物は、単なるペットではなく、象徴としての役割を与えられています。
一つ目の意味は「純潔・節度」です。白い毛を汚すくらいなら死を選ぶと言い伝えられてきた白貂は、中世からルネサンスにかけて「清らかさ」や「自制心」の象徴として扱われました。レオナルド自身も後年のメモで、「白貂は汚れた場所に逃げ込むくらいなら捕らえられることを選ぶ」と記しています。
二つ目は、ルドヴィーコ・スフォルツァとの結びつきです。ルドヴィーコはナポリ王から「エルミン騎士団」の称号を授けられて以来、自身の紋章に白貂を用いていました。そのため、白貂は彼の人格や権威を暗示するモチーフでもあり、セシリアを抱く彼女の姿は、主君との愛情や庇護関係を暗に示していると解釈されます。
さらに、ギリシア語で白貂を表す言葉が「ガレー(galê)」で、セシリアの姓「ガッララーニ(Gallerani)」と音が近いことから、名前にかけた言葉遊び(いわゆる駄洒落的な寓意)だとする説もあります。レオナルドは、《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》で、モデルの名前(ジネヴラ)と同じ「ネズ(ジュニパー)」の木を背景に描いた前例があり、同じ発想がここでも使われたと考えられています。
一方で、セシリアがちょうど妊娠中だったことから、白貂を「妊婦を守る動物」とする古典文学の連想に結びつける説もあり、複数の意味が重ねて仕込まれている可能性が高いとされています。
ただの“かわいいモフモフ”じゃなくて、情報量モンスターな小動物だった。
しかも、君主のシンボルでありつつ、彼女自身の名前と妊娠までほのめかすって、レオナルドどんだけ仕掛けるんだよってなる。
構図とポーズの革新性|動き出す直前の「ねじれ」
《白貂を抱く貴婦人》を見てまず目を引くのは、モデルの身体の向きと顔の向きがずれている点です。
上半身は右側へとひねられ、顔はさらに左側へ視線を送っています。腕の中の白貂も、それに合わせるように首を伸ばし、三者が同じ方向へ注意を向けているかのようです。

このような「捻転したポーズ」は、レオナルドが好んだ構図で、人物の動き出す直前の緊張を表すのに適していました。彼は《岩窟の聖母》に登場する天使などでも同じようなねじれを追究しており、ここでは肖像画の形式の中にその実験を持ち込んでいます。
それまでのイタリア肖像画は、横顔か正面向きが主流でしたが、レオナルドは三分の四正面という中間的な角度を採用し、立体感と心理的な奥行きを同時に生み出しました。黒一色の背景に人物だけを浮かび上がらせる処理も、モデルの存在感を際立たせるための大胆な選択です。
ただ座ってるだけなのに、“誰かが部屋に入ってきた瞬間”みたいな空気があるよね。
うん。静止画なんだけど、今にも会話が始まりそうな一瞬を切り取ってる感じがすごく映画的。
レオナルドの光と質感表現|肌と毛並みのコントラスト
この肖像画でレオナルドの力量がもっともよく分かるのは、肌と白貂の毛並みの描写かもしれません。
セシリアの顔や首は、スフマートによって滑らかにぼかされ、血の気を感じさせる柔らかな質感に仕上げられています。一方、白貂の毛は一本一本が細かく描き分けられ、爪や鼻先にはわずかな光沢が与えられています。
また、右手の描写も注目されます。伸ばされた指の骨格、関節の皺、爪の形までが驚くほどリアルで、動物の体にそっと触れている感覚まで伝わってくるようです。レオナルドは解剖学の研究を通じて筋肉や腱の構造を熟知しており、その知識が肖像画のさりげない部分にまで活かされています。
黒い背景から人物と動物だけがライトを浴びたように浮かび上がるライティングは、後のカラヴァッジョなどバロック期の画家たちを先取りするかのようです。陰影のコントラストと、色彩の節度ある組み合わせが、静かな高貴さを生み出しています。
この右手、写真みたいとかじゃなくて、“触れたときの感触”まで想像させてくるのずるい。
レオナルド、たぶん一生分の観察力を全部この数十センチ四方の中に詰め込んでるよね。
ポーランドの国宝になるまで|コレクションの波乱の歴史
《白貂を抱く貴婦人》は、制作当時の資料がほとんど残っておらず、その後の行方もしばらく不明でした。
18世紀末になってようやく、ポーランドの貴族チャルトリスキ家がイタリアでこの作品を購入し、自国に持ち帰ります。以来、この絵はポーランド近代史の波乱の中を生き延びることになりました
19世紀にはロシア軍の侵攻を避けて隠され、第一次世界大戦中にはドレスデンの美術館に避難。第二次世界大戦ではナチス・ドイツに没収され、一時は総督官邸の飾りとして掛けられていましたが、戦後連合軍によって発見され、再びポーランドへ返還されました。
現在はクラクフのチャルトリスキ美術館で厳重な保存環境のもとに展示されており、ポーランドを代表する文化財の一つになっています。2016年にはチャルトリスキ家のコレクション全体がポーランド政府に買い取られ、国家の所有となりました。
戦争と政変を何回もくぐり抜けて、よく無事だったなってレベルの経歴だね。
ほんとに。セシリア本人も波乱万丈だけど、絵の人生も負けてないのがまたドラマチック。
おすすめ書籍
このサイトの参考にもさせて頂いている本を紹介します。
まとめ|《モナ・リザ》へとつながる、レオナルド肖像の決定的な一歩
《白貂を抱く貴婦人》は、レオナルドが描いた数少ない女性肖像の一つです。
そこには、三分の四正面という革新的な構図、動きを感じさせるねじれたポーズ、心理的な緊張を湛えた横顔、象徴に富んだ白貂、そしてスフマートによる繊細な肌の表現が、ぎゅっと凝縮されています。
この作品で試みられた技法や人物描写の深さは、後の《モナ・リザ》へと確実につながっていきます。一方で、《白貂を抱く貴婦人》には、若きセシリアとミラノ宮廷の愛憎劇、そしてポーランド史の激動までが重ね書きされており、一枚の肖像画を超えた物語性が宿っています。
もしクラクフを訪れる機会があれば、ぜひガラス越しにセシリアと白貂の視線の先を追いかけてみてください。レオナルドが描いた「動き出す直前の一瞬」が、500年以上の時を超えて、こちらに何かを語りかけてくるはずです。
《モナ・リザ》が“世界一有名な微笑み”なら、《白貂を抱く貴婦人》は“世界一ストーリーの詰まった横顔”って感じだね。
うん。レオナルドの肖像の進化を追うなら、この一枚を通らない手はないって断言していいと思う。


