膝を抱え、顔をうずめる女性。
裸身の曲線は切り株に寄りかかり、背景の草むらと細い枝が静かに囲います。
1882年、ハーグ時代のフィンセント・ファン・ゴッホが描いた《悲しみ》は、当時寄り添っていた女性シーン(クラシナ・マリア・ホールニック)をモデルにした大判の素描です。
派手な効果を避け、鉛筆やチョーク、墨のストロークだけで、孤独・生活の困窮・人への共感を画面に凝縮しました。のちの色鮮やかな油彩を知っていても、この一枚の静けさは強く胸に残ります。
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色がないのに、体温がちゃんと伝わってくる。
線の向きと濃淡で“感情の重さ”を積んでるからだね。

《悲しみ》
まずは簡単に作品の情報を紹介します。

作品名:悲しみ
制作年:1882年(ハーグ)
技法:紙に鉛筆・チョーク・ペンとインク
モデル:クラシナ・マリア・ホールニック(通称シーン)
備考:同年、同主題をもとにリトグラフ版も制作/紙縁にフランス語の銘文(歴史家ミシュレの言葉を引用した趣旨)が添えられた作例が知られる
所蔵:ウォルソール・ニュー・アートギャラリー蔵(イギリス・バーミンガム)

素描と版画、両方やってるのが面白い。
うん。安価な版にして広く届かせたい意図もあったんだ。

制作背景|ハーグ時代、シーンとの生活から生まれた像
1882年のゴッホはハーグで制作しながら、妊娠中で幼い子も抱えた女性シーンを支え、同居に近い生活を送っていました。
《悲しみ》は、モデル個人のポーズ練習にとどまらず、貧困や孤独に直面する人への共感を、具象の力で掴もうとする試みです。彼は“美しい理想像”よりも“生きている身体”の現実を選びました。

人物の背景に、当時の暮らしの重さが透けて見えるな。
そう。絵のテーマは恋愛だけじゃなく、社会の現実なんだよ。

画面の読み方|うずくまる身体、地面の近さ、静かな植物
女性は膝を胸に引き寄せ、腕で顔を覆います。脊椎の曲線が大きなアーチを描き、肩甲骨から腰にかけての面が、柔らかい斜線で彫り起こされています。
足元の草、切り株、枝のシルエットは最小限の線で置かれ、屋内外があいまいな“境界”がつくられる。視線が留まるのは装飾ではなく、丸まった身体の量感です。

飾りは少ないけど、草や枝が静けさを増幅してる。
うん、余白を広く取って、感情がこぼれない器にしてる。

タイトルと銘文|「この地上に孤独な女がいるとは」—言葉のフレーム
紙縁には、フランスの歴史家ミシュレの言葉を引いたフレーズが手書きされる作例があり、“なぜ世界に孤独な女がいなければならないのか”という趣旨の一文が添えられています。
絵そのものは沈黙しているのに、短い文字が視点を社会へ押し広げる。個人の悲しみと社会的な問いが、同じ紙面で並置されます。

言葉が入るだけで、視界が人物の外に伸びるね。
そう。画面の外側—社会—への矢印になる。

線とトーンの設計|素描だから届く“触覚”
《悲しみ》は陰影を塗りつぶすのではなく、斜線の密度と方向で面を立ち上げています。
背中の弧は太いストロークで、肋骨の下は細かい線で柔らかく。膝と腕の重なりは暗い調子で結節点をつくり、視線が迷わない。
白い紙の残しが肌の“息”になり、露骨な劇性を避けながら、触れられる距離の実感を保っています。

モノクロなのに、皮膚のやわらかさが見える。
線の方向と間隔で、温度まで作ってるからね。

シーンというモデル|“理想美”ではなく“生きる顔”
シーンは当時、社会的に弱い立場にありました。ゴッホは彼女の身体を、理想化せず、しかし尊厳をもって描いています。
モデルの個人史を誇張して物語化するのではなく、“ここにいる人”としての重量を、紙の上で受け止めた点がこの作品の核です。

弱さを見せるんじゃなく、存在の重みを見せてる感じ。
うん。“見世物”にはしない、まっすぐな視線だよ。

版画版《悲しみ》と“届ける手段”
同年、ゴッホは同主題をもとにリトグラフも制作しました。高価な油彩ではなく、紙の版として複数に刷ることで、作品を広く届けられると考えたからです。
線の経済性、黒のレンジ、紙の地肌——素描で鍛えた要素が、そのまま版に適した言語になりました。

方法の選び方にも思想があるんだね。
そう。手に届く形で届けたい、っていう意思表示だ。

意義|のちの色彩へ続く“人間観の原点”
《悲しみ》は、のちの《ジャガイモを食べる人々》や南仏の鮮烈な色彩へ直結する“人間観の原点”です。
彼は初期から、社会の周縁にいる人へ視線を向け、量感のある線と誠実な距離感で描いていました。色が加わっても、核は変わらない。
この静かな素描を知ると、後年の強烈な色も、人間へのまなざしの延長にあることがよくわかります。

:結局、どの時代のゴッホも“人”に戻ってくるんだな。
だね。ここでのまっすぐさが、ずっと芯になってる。

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まとめ|静けさの中に置かれた“肯定”
《悲しみ》は、ドラマを語らず、断定もせず、ただうずくまる人の形を受け止めた素描です。
その静けさ自体が、存在への肯定になっている。
ゴッホが選んだのは、哀れみではなく尊厳でした。だからこそ、140年近く経っても、この紙は今の私たちの前で息をして見えます。

小声の絵なのに、心に深く届くね。
小声だからこそ、長く響くんだよ。

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