モンマルトルの生活が肌に合いはじめた1887年のパリで、ゴッホは身近な人々を次々とキャンバスに迎えました。本作は、その流れのなかで生まれた一枚です。
背景を無数の短いタッチで満たし、灰青〜薄緑の涼やかな空気のなかに、がっしりした体格の男がやわらかい眼差しで横を向く。モデルの名はエティエンヌ=リュシアン・マルタン。クリシー大通り界隈の大衆食堂を切り盛りしていた人物で、ゴッホが足繁く通ううちに親しくなったと考えられています。
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」で来日する作品です。
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この人、ダンディってより“頼れる店長”感あるよね。
わかる。常連の好み、ぜんぶ把握してそうだわ。

《エティエンヌ=リュシアン・マルタンの肖像》
まずは簡単に作品の情報を紹介します。

作品名:エティエンヌ=リュシアン・マルタンの肖像(Portrait of Etienne-Lucien Martin)
制作年:1887年11月(パリ)
技法・素材:油彩/カンヴァス
サイズ:65.8 × 54.5 cm
所蔵:ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)※ヴィンセント・ファン・ゴッホ財団蔵

サイズもしっかり。お店の壁に掛けても存在感すごそう
常連が“お、親方!”って見上げるやつね

モデルは誰か|“クリシーの食堂”を切り盛りした店主
長らく身元不詳とされてきたモデルは、現在ではエティエンヌ=リュシアン・マルタンに比定されています。彼はクリシー大通り沿いの庶民的な食堂(当時のパリで言うところの“ブイヨン”系の店)を営んでいた人物で、近隣の画家や労働者の胃袋を支えました。ゴッホはその店の常連客で、通い詰めるうちに店主と打ち解け、肖像制作へとつながったとみられます。
1887年末、ゴッホは同じクリシー界隈の飲食店で小規模な絵の展示を試みています。マルタンのような店主たちの協力が、画家仲間の作品発表の場をひらく手助けになったことは確かです。パリの“食堂文化”が、サロン以外の見せ場を生んだ──本作はその空気を伝える証言でもあります。

つまり町の実力者だ。店主ネットワークつよい
画家の営業にもめちゃ効く。縁は胃袋から、ってやつ

筆致と色調|点描主義を吸収して“軽やかに”
背景一面に置かれた短い縦横のストロークは、スーラやシニャックら点描主義(ディヴィジョニスム)からの学びを反映しています。顔の建付けは厚みのある肉付けで、頬や鼻の赤みが体温を運び、上着と帽子は青灰色でまとめられました。
無彩色寄りの地合いに、肌と唇の温度を差し込む配色は、この年のゴッホが追いかけた「強い対比を混色ではなく並置で出す」という実験の成果です。野外のまばゆい光ではなく、店内の拡散光を感じさせる抑えた明度も耳目をひきます。

背景のサラサラ、音がしそうだわ
カトラリーとグラスのカチャ…って店の環境音まで見える

室内帽と胸ポケット|“働く肖像”のアイコン
マルタンが被るのは縁のない室内帽。コック帽ほど仰々しくはないが、仕事用のきちんと感を出す実用品です。ラペルや胸ポケットの描写は簡潔ながら、布地の厚みと清潔さが伝わるようにエッジが立てられ、職人としての誇りがにじみます。
正面ではなく斜めの半身像にした構図も、観る者を“カウンターの対客席”に座らせる効果を生み、モデルの人柄と距離感をうまく保っています。

視線の先、きっと厨房かレジだよね
『今日の定食もう一つ!』って声が飛んでそう」

1887年末の動き|小さな展示が生んだ大きな出会い
同年11月ごろ、ゴッホはクリシー界隈の飲食店で仲間の作品を並べる会を開催しました。常連ベースの地場ネットワークを活かした半ば自主企画で、壁面には日本の浮世絵を混ぜ込むこともありました。こうした場が、画家同士の交流や紹介を促し、のちの交友(たとえばゴーガンらとの接近)へと波及していきます。
つまりこの肖像は、単なる“常連の似顔”を超え、パリ北側の芸術圏を支えた店主の記念碑でもあるのです。

ギャラリーがなくても、町ぜんぶが展示空間になるんだ
そう。壁があれば、そこがミュージアムだよ

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まとめ|パリの生活圏が描かせた“信頼の距離”
《エティエンヌ=リュシアン・マルタンの肖像》は、点描の実験、室内光の設計、モデルとの信頼、この三つが同時に噛み合った作品です。パリの画家ヴァン・ゴッホが街の働く人をまなざし、同時代の色彩理論を自分の言葉に変えていく過程が、ここには手触りとして残っています。

派手じゃないのに、見れば見るほど沁みるやつ
静かな名作ってこういうこと、って思うわ

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