1889年のはじめ、アルルの「黄色い家」に戻ったフィンセント・ファン・ゴッホは、包帯で耳を覆った自分を真正面から描きました。
事件の直後という生々しい時間を、冷たい冬色と鋭い線で定着させた本作は、悲劇の記録ではなく「まだ描ける」という生の宣言です。壁には愛蔵していた浮世絵が掛かり、左にはイーゼルがのぞきます。画家は痛みとともに、絵を描く場と憧れのイメージまでを背後に配して、自分の職能と心の支えを一点に結び直しました。
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目がまっすぐで、こっちも姿勢ただされるわ…
だよな。あの視線、“生きて描く”って意思そのものだよ。

《耳を切った自画像(包帯の自画像)》
まずは簡単に作品の情報を紹介します。

作品名:耳を切った自画像(包帯をした自画像)
制作:1889年、アルル
技法・素材:油彩/カンヴァス
サイズ:約60×49cm
所蔵:コートールド・ギャラリー(ロンドン)

ポイントを押さえると、作品の“座標”がすっと入るね。
データは最短ルート。そこから物語が広がるんだ。

事件ののち、絵筆で呼吸を取り戻す
1888年末に起きた耳の負傷後、ゴッホは医師の治療を受けて制作を再開します。理由については諸説があり、単一の説明に還元できません。大切なのは、彼がキャンバスの前に立ち、絵を通じて自己をつなぎ止めた事実です。
包帯と毛皮帽の厚み、コートの重い緑、室内の寒色が伝える冬の空気。画面左のイーゼルは“仕事場へ復帰した画家”を示し、壁の浮世絵は、彼が学びと慰めを見いだした東洋趣味を象徴します。現実の痛手と精神の支えを、ひとつの平面で共存させる構図が鮮烈です。

背景に浮世絵、左にイーゼル。自分の“拠りどころ”を全部後ろに置いてるんだね。
そう。痛みの只中で、仕事と憧れを背にもう一度立ったんだ。

色と線――補色の緊張でつくる静かな烈しさ
顔の黄~オレンジ、外套の緑、帽子や背景の青。その取り合わせは補色関係を多用し、静かな表情の奥に強い振幅を秘めます。輪郭には暗い線が引かれ、面の上を短いストロークが規則的に走るため、脈打つようなリズムが生まれます。
光源は室内の拡散光で、陰影は浅く保たれ、かわりに色の対比が心理の起伏を担います。モデルも小道具も最小限。視線の硬さと筆触の律動だけで、内側の緊張を保つ設計です。

派手に叫ばないのに、色がぶつかってドキドキする。
抑えた声量で殴り合う補色、ってやつだな。

反復するセルフポートレイトという治療

同年初頭には、包帯姿を描いた別ヴァージョンも知られています。ゴッホにとって自画像は、鏡を介した日記であり、技術の鍛錬でもありました。面貌のわずかな違いと背景の差異は、体調や気分、制作環境の揺れをそのまま反映します。
本作が今なお強い説得力をもつのは、“出来事の説明”に留まらず、“なお描く者”という自己定義を正面から描き込んだからにほかなりません。

同じ自分を何度も描くの、怖くもありそう。
でもそれで生還ルートを探した。絵が彼の地図だったんだ。

背景の「室内」までが語り手になる
壁の黄緑、ドアの青、版画の赤。静物画のように置かれた色面が、人物の輪郭を押し出します。左のイーゼルは、画面外のキャンバス=“次の絵”を暗示し、視線は観者を通り抜けて制作の未来に向かうかのようです。
画中の全要素が、自己の回復と継続を言い換える語彙になっており、だからこそ物語性は強いのに、感傷は最小限に留まります。

室内の色まで台詞をしゃべってるみたい。
役者は一人じゃない。壁も椅子も、みんな舞台の仲間だよ。

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まとめ――悲劇の絵ではなく、再起の設計図
包帯と冷色が強く記憶に刻まれる一方で、画面は職人の秩序で組み立てられています。構図、補色、輪郭線、筆触。どれも“描く”ための技術で、事件を説明するための情緒ではありません。
この自画像は、アルルの冬に描かれた個人的な再起の設計図であり、同時に近代のセルフポートレイトを更新した画期でもあります。

“再起の設計図”って言葉、しみる。
うん。あの視線は、次の一枚へ続くドアなんだ。

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