レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》は、世界で最も有名なキリスト教美術の一つですが、「裏切者ユダがどこにいるのか」が意外と分かりにくい作品でもあります。伝統的な最後の晩餐の図像では、ユダだけを手前に座らせたり、テーブルの反対側に一人きりで描いたりして、ぱっと見で裏切者だと分かるようにするのが一般的でした。
ところがレオナルドは、あえてユダを他の弟子たちと同じ列に座らせます。そのうえで、ポーズや表情、持ち物やテーブルの上の小さなモチーフに「これはユダだ」というヒントを散りばめているのです。しかも場面として選ばれているのは、イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と告げた直後、部屋の空気が一気に揺れた瞬間です。
この記事では、まず《最後の晩餐》という作品の基本情報を押さえ、そのあとでユダの位置やしぐさを具体的に追いかけます。さらに銀貨の袋やこぼれた塩など、ユダの周囲に置かれた象徴表現が何を語っているのかも丁寧に読み解いていきます。
“とりあえず裏切者はユダ”って知ってても、どこにいるか迷子になるんだよね。
レオナルドがわざとレベル高い“ウォーリーをさがせ!”にしてる感じする。
《最後の晩餐》
まずは簡単に作品の情報を紹介します。

・作品名:最後の晩餐(Il Cenacolo / L’Ultima Cena / The Last Supper)
・作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)
・制作年:1495〜1498年ごろ
・技法:テンペラと油彩を乾いた下地の上に重ねた「乾式壁画」(フレスコではない)
・サイズ:縦約460cm × 横約880cmの巨大な壁画
・場所:ミラノ・サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂の北側の壁
・主題:ヨハネ福音書13章に記された、イエスが「一人が裏切る」と予告した瞬間の最後の晩餐
数字で見ると、改めて“壁まるごと一枚の絵”ってスケール感だね。
そうそう。教科書サイズだと忘れがちだけど、実物は映画館のスクリーンみたいなデカさだと思っておくとイメトレしやすい。
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聖書の物語から見るユダ|なぜ彼が「裏切者」と呼ばれるのか
《最後の晩餐》の裏切者がユダだとされる理由は、もちろん絵の中だけではなく聖書の物語にあります。福音書によれば、ユダ・イスカリオテは十二弟子の一人でありながら、祭司長たちと手を組み、イエスを引き渡すことで銀貨を受け取った人物です。マタイ福音書では、その額が「銀貨三十枚」と具体的に記されています。
最後の晩餐の場面では、イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と言ったことで、弟子たちは一斉に動揺し始めます。ヨハネ福音書では、ペトロが隣にいた「愛された弟子」に合図し、「誰のことか聞いてくれ」と促すくだりも描かれています。
このあとユダは、イエスから渡されたパンを受け取って席を立ち、闇の中へ出ていきます。そしてゲツセマネの園で兵士たちを案内し、接吻を合図にイエスを指し示します。裏切りを象徴する「ユダの接吻」の場面です。レオナルドは、その接吻の直前、まだ誰も席を立っていない、しかし全員が心の中でざわついている瞬間を選び取りました。
物理的な裏切りが起きる前の、言葉だけ投げ込まれたタイミングって一番メンタルえぐられるよね。
うん。その“空気が凍った一秒後”を静止画にしてるから、見るだけでこっちも胃がキュッてなる。
《最後の晩餐》の構図をざっくり確認|ユダを見つけるための全体地図
ユダを正確に見つけるには、まず画面全体の構図を頭に入れておくと、とても探しやすくなります。《最後の晩餐》では、イエスと十二弟子は長いテーブルの片側に一列に並び、その背後には奥へと伸びる部屋の空間と三つの窓が描かれています。すべての遠近線はイエスの頭のあたりに集まるよう設計されていて、視線が自然と中央に吸い寄せられる仕掛けです。
十二弟子は、三人ずつ四つのグループに分けられています。向かって左端から、バルトロマイ、アルファイの子ヤコブ、アンデレのグループ、次にペトロ、ユダ、ヨハネのグループ、イエスを挟んでトマス、大ヤコブ、フィリポのグループ、そして右端にマタイ、タダイ(ユダ・タダイ)、シモンのグループです。
この「三人×四組」という構成そのものが三位一体を連想させる数字の遊びになっていて、レオナルドは宗教的な象徴と数学的な秩序を同時に組み込んでいます。その中に、ユダはあくまでも一人の弟子として並びながら、しかし微妙な違和感をまとった存在として紛れ込んでいるのです。
全員の並び順が分かると、“この三人セットはこういう空気感”って見えてきて楽しいね
そうそう。ユダもあからさまに浮いてるんじゃなくて、“ペトロ・ユダ・ヨハネのトリオの中で違和感がある人”っていう描かれ方してるのがポイント。
ユダはどこにいる?《最後の晩餐》の中の具体的な位置
さて、いよいよユダの場所をピンポイントで確認していきます。
まず中央のイエスに視線を合わせてください。そこから画面の左側へ目を移すと、イエスのすぐ隣に、三人が密集したグループが見えます。左端にいるのが怒りをあらわにして身を乗り出すペトロ、その前にイエスにもたれかかるようにしているのが若いヨハネです。そして、この二人と同じグループにいながら、少しだけテーブルから身を引き、顔に濃い影を落としている人物、それがユダ・イスカリオテです。
ユダは上半身を前方にかがめつつ、椅子からわずかに離れるような姿勢を取っています。彼の視線はイエスから外れ、横目でテーブルの上を見ているようにも読めます。イエスに向かって身を寄せるヨハネと対照的に、ユダは気配を消すように影の中へ沈み、グループの中でひとりだけ距離を取っているのが分かるはずです。
このようにレオナルドは、ユダを中央から離れた端に追いやるのではなく、イエスのごく近くに置いたうえで、ポーズと光だけで「疎外されている人」を描き出しました。それによって、裏切りが単純な悪意ではなく、イエスのすぐそばから生じる悲劇であることを強調しているように見えます。
“イエスの隣で、目線そらしてる影の人”って覚えればもう迷わなさそう。
うん。美術館で一瞬しか見られなくても、この特徴押さえておけばサクッとユダを捕捉できるね。
銀貨の袋とこぼれた塩|ユダの前に置かれたささやかな証拠
ユダが裏切者だと分かる決定的なヒントが、彼の手とテーブルの上に隠れています。ユダは左手で小さな袋を握りしめていますが、多くの研究者はこれを、祭司長たちから受け取る銀貨を象徴するもの、もしくは弟子たちの会計係だった彼の役割を示す財布だと解釈しています。
もう一つ重要なのが、ユダのすぐ前で倒れている塩壺です。現在のオリジナルでは傷みが激しく、肉眼では認識しにくいのですが、同時代の模写作品や技術調査から、当初は塩がテーブルの上にこぼれていたことが確認されています。中東の文化では、「塩を共にする」ことが主従関係や友愛の契約を意味し、「塩を裏切る」という表現は主人を裏切ることを指す言い回しでした。
イエスが弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と語った言葉を思い起こせば、ユダの前でひっくり返った塩は、主に対してだけでなく、仲間たちとの結びつきを捨ててしまう行為の象徴と読むことができます。銀貨の袋とこぼれた塩、この二つの小さなモチーフだけで、レオナルドはユダの選択とその重さを静かに語らせているのです。
机の上が“犯行現場の証拠写真”みたいになってるの怖いね。
セリフ一切なしで、“お金も友情も、どっちを選んだか”を小物で全部バラしてるのがレオナルドっぽい。
光とポーズが語るユダの心理|レオナルドが描いた「迷いを抱えた裏切者」
レオナルドのユダ表現が特別なのは、単に象徴を並べるだけでなく、彼の内面まで読み取れるような描き方をしている点です。ユダの顔は、他の弟子たちよりも強い陰影で描かれています。同じグループのペトロとヨハネが比較的明るい光の中にいるのに対し、ユダだけが半分闇に沈み、輪郭もやや不鮮明です。この明暗の差は、裏切りによって生じる心の暗さを視覚化したものと考えられます。
ポーズにも注目すると、ユダは椅子からわずかに身を引き、テーブルに肘をつきながら、腰から下はまだその場にとどまっています。これは、裏切りの計画をすでに心に抱きながらも、完全には振り切れていない「迷い」を示しているように見えます。彼の視線がイエスではなくテーブルの一点に向かっていることも、目を合わせることを避けようとする心理を感じさせます。
レオナルドは、ユダを悪魔のような姿に歪めるのではなく、罪と迷いを抱えた人間として描きました。その姿は、単純な「悪役」というより、自分の弱さに引きずられて取り返しのつかない選択をしてしまう、非常に現実的な人物像に近いものです。《最後の晩餐》が今も見る人の心に刺さるのは、ユダを含む十三人の感情が、どこか自分自身の姿と重なってしまうからかもしれません。
ユダをちゃんと見てると、“もし自分だったら裏切らないって言い切れるかな…”ってちょっと黙っちゃう。
分かる。レオナルドは説教するんじゃなくて、“人間ってこういうとこあるよね?”って鏡突きつけてくるタイプだよね。
おすすめ書籍
このサイトの参考にもさせて頂いている本を紹介します。
まとめ|ユダを探すことは、《最後の晩餐》の核心をのぞき込むこと
レオナルドの《最後の晩餐》で裏切者は誰かと問われれば、それは聖書と同じくユダ・イスカリオテです。ただしレオナルドは、彼を分かりやすく孤立させるのではなく、イエスのすぐ近くに座らせ、そのかわりに影、ポーズ、銀貨の袋、こぼれた塩といった細部を通して「この人こそ裏切者である」と示しました。
ユダの位置が分かるようになると、《最後の晩餐》全体の見え方も変わってきます。怒りをあらわにするペトロ、ショックで身を預けるヨハネ、説明を求めるフィリポ、互いに問い詰め合うマタイたち。それぞれの反応が、「裏切者が自分たちの中にいる」という事実をどう受け止めるかという、十三人の心理ドラマとして立ち上がってきます。
ミラノで実物を見るときには、まず中央のイエスを見据え、そこから左隣の三人のグループに視線を移してみてください。影の中で銀貨袋を握り、こぼれた塩の前で身を引いている人物を見つけた瞬間、《最後の晩餐》は有名な宗教画から、「迷いと葛藤を抱えた人間たちの場面」へと姿を変えて見えてくるはずです。
ユダの場所と小物の意味を押さえておくと、《最後の晩餐》が一気に物語として立体的になるね。
うん。“裏切者はユダです、ここにいます”って自分の目で確認できたとき、この絵とちょっと仲良くなれた感じがすると思う。


