フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会、ブランカッチ礼拝堂の一角に描かれたマザッチョ《楽園追放》は、わずか数人しか登場しないにもかかわらず、見る人の心を強く揺さぶるフレスコ画です。
旧約聖書の「創世記」に登場するアダムとエヴァが、楽園エデンを追い出される瞬間を切り取ったこの作品は、初期ルネサンスの中でもとくに感情表現が豊かな例として知られています。
身体は彫刻のように立体的に描かれながら、顔には取り返しのつかない罪を犯した人間の苦悩がはっきりと刻み込まれています。上空からは炎の剣を持つ天使が迫り、背後の門の暗さと荒れた大地が、二人の悲劇をさらに際立たせています。
この記事では、《楽園追放》の基本データから、聖書の物語、アダムとエヴァのポーズや感情表現、天使や背景の意味、そしてブランカッチ礼拝堂における位置づけや他の代表作とのつながりまで、丁寧に解説していきます。
一枚なのに感情の圧がすごいよね、これ。
うん、“泣いている人間”をここまでリアルに描いたの、当時としてはかなり攻めてると思う。
《楽園追放》
まずは簡単に作品の情報を紹介します。

作品名:楽園追放
作者:マザッチョ
制作年:1420年代半ば、1426〜1427年ごろと考えられている
技法:フレスコ(湿った漆喰の上に描く壁画技法)
サイズ:約縦208cm×横88cmの細長い画面
主題:旧約聖書『創世記』におけるアダムとエヴァの楽園追放の場面
場所:イタリア・フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・カルミネ教会 ブランカッチ礼拝堂
連作:同じ礼拝堂の聖ペテロ伝フレスコ群の一部で、入口付近の対向面にはマゾリーノによる《楽園の誘惑》が描かれている
サイズ見ると、ほぼ人間と同じ背丈だね。
だから礼拝堂で見ると、アダムとエヴァが目の前で泣きながら歩いてくる感じが直に伝わるんだよ。
<作者についての詳細はこちら>
マザッチョについて解説!ルネサンスを一気に加速させた若き天才
旧約聖書「創世記」の物語と《楽園追放》
この作品の元になっているのは、『創世記』3章に記されるアダムとエヴァの物語です。エデンの園で神から「善悪の知識の木の実だけは食べてはならない」と命じられていた二人は、蛇の誘惑に負けて禁じられた実を口にしてしまいます。その結果、自分たちが裸であることに気づき、恥を覚え、神から厳しい裁きを受けて楽園から追放されることになります。
マザッチョは、この長い物語の中から「楽園を追い出されるまさにその瞬間」を切り取っています。画面の左側には楽園の門がわずかに見え、その脇から炎の剣を振るう天使が飛び出してきます。アダムとエヴァは門を背にして外の荒れた大地へと押し出され、もう二度と戻ることはできません。
ブランカッチ礼拝堂では、この場面と向かい合う位置に「楽園の誘惑」が描かれており、罪を犯す瞬間と罰を受ける瞬間が礼拝堂の入口の両側を挟む形になっています。信者は礼拝堂に入るとき、誘惑と追放、両方の場面を同時に意識しながら聖ペテロの物語へと足を踏み入れることになっていたと考えられます。
入口で“やらかした瞬間”と“その後の現実”を両側から見せられるの、なかなか容赦ないね。
だよな。でもその先にあるペテロの物語が“救いの道”だから、礼拝堂全体で一つのストーリーになってるんだよ。
アダムとエヴァのポーズに込められた恥と絶望
《楽園追放》の最大の見どころは、アダムとエヴァの感情表現の強さです。
アダムは前かがみになりながら両手で顔を覆い、声にならない叫びを上げているかのような姿で描かれています。肩から背中にかけての筋肉の緊張や、膝の曲がり方、つま先の踏ん張りが、見えない涙と嗚咽を感じさせます。
一方エヴァは、顔を上に向けて口を開き、胸と下腹部を腕で必死に隠しています。これは当時広く共有されていた「恥じらいのポーズ」を思わせる表現であり、女性の側がより強く羞恥を意識していることを示しているとも解釈されています。
二人の身体は、ギリシア彫刻を思わせるような量感を持って描かれていますが、理想的な美しさよりも、罪を自覚した人間の弱さと苦しみが前面に出ています。マザッチョは、輪郭線で平面的に処理するのではなく、光と影のグラデーションで筋肉や骨格を表現し、まるで彫刻が動き出したかのようなリアリティを生み出しました。
アダムの“顔を手で隠してるけど隠しきれてない感じ”が、見ててつらくなるよね。
エヴァの叫び方もかなりストレートで、人間味ありすぎて、宗教画っていうよりドラマのワンシーンみたいだよな。
天使と空間表現がつくる「逃げ場のない」世界
画面の左上には、炎のような赤い衣をまとった天使が描かれています。手には抜き放った剣を持ち、翼を広げて斜め下へと飛び込むような姿勢をとっています。その表情は厳しく、容赦のなさと神の命令を遂行する冷徹さが伝わります。
天使は、楽園の門の上部から外の世界へと飛び出しており、門の外側にいるアダムとエヴァに向かって直接追い立てているように見えます。この配置によって、二人には後戻りする道がなく、前に進むしかないことが一目でわかる構図になっています。
背景は非常に簡素で、荒れた斜面と青い空だけが描かれています。豊かな草木や水に満ちたエデンのイメージとは対照的に、ここには生命の気配がほとんどありません。足元の茶色い地面は固く乾き、これから始まる厳しい労働と苦難の人生を暗示しているかのようです。
画面全体に使われている光の方向は一定で、ブランカッチ礼拝堂の窓から差し込む実際の光とほぼ同じ向きに設定されています。そのため、現地で見ると、天使や二人の身体が礼拝堂の空間の中に本当に立っているかのような一体感が生まれます。
背景ほとんど何もないのに、逆に“どこにも逃げ場がない”感じが出てるのすごいね。
そうなんだよ。天使も地面も光も全部、“追放されました、以上!”っていう現実を突きつけてくるんだよな。
ブランカッチ礼拝堂とマザッチョの革新性
《楽園追放》が描かれているブランカッチ礼拝堂では、聖ペテロの生涯を中心としたフレスコ群が壁一面に展開されています。この大事業は、富裕な商人フェリーチェ・ブランカッチの依頼により、マザッチョと年長の画家マゾリーノが共同で進めました。制作は1420年代半ばに始まり、のちにフィリッピーノ・リッピが補完しています。
礼拝堂の多くの場面では、聖ペテロが牢から解放される出来事や奇跡を起こす場面などが描かれていますが、入口付近だけは例外的にアダムとエヴァの物語が置かれています。これは、人類最初の罪とその結果としての追放を示し、その先に続くペテロの物語を「救いの歴史」として読み直させる構成だと考えられています。

マザッチョは、この礼拝堂の他の場面《貢の銭》などでも、重みのある人体や遠近法を使った建築空間を描き、初期ルネサンス絵画の方向性を決定づけました。《楽園追放》は、そうした技法を「人間の感情」に集中して使った、特に象徴的な一枚と言えるでしょう。
入口でアダムとエヴァ、その奥でペテロの物語っていう流れ、礼拝堂全体のストーリー設計が結構しっかりしてるね。
しかもそのキーになるシーンを、若いマザッチョが任されてるっていうのがまたアツいんだよ。
《楽園追放》が後世に与えた影響
マザッチョは1401年生まれで、1428年ごろにはすでにこの世を去っていたと考えられています。活動期間は10年ほどと非常に短いにもかかわらず、彼のフレスコは後の世代に決定的な影響を与えました。
《楽園追放》に描かれたアダムとエヴァのポーズや表情は、ミケランジェロをはじめとするルネサンス以降の画家たちに繰り返し研究されました。人体を理想化するだけでなく、罪悪感や恥、絶望といった内面を動きで表現するやり方は、宗教画をより人間的なドラマとして描く流れにつながっていきます。
また、マザッチョという名前自体が「大ざっぱなマゾ」「ちょっとだらしないトンマーゾ」といった意味を持つあだ名であることも知られています。
衣食住にはあまり無頓着だったとも伝えられますが、そのぶん絵画に向ける熱量は圧倒的で、短い人生の中で中世的なスタイルからルネサンス的な自然表現へと、一気に舵を切ってしまった存在でした。
ニックネームの由来が“だらしないトンマーゾ”なのに、仕事は誰よりもキレッキレってギャップがすごいよね。
そこがまた人間味あっていいんだよ。生活は雑でも作品はガチ、みたいな。
おすすめ書籍
このサイトの参考にもさせて頂いている本を紹介します。
まとめ|短い一生が残した永遠の叫び
マザッチョ《楽園追放》は、旧約聖書の有名な場面を扱いながらも、教科書的な説明を超えて、罪を自覚した人間の痛みを真正面から描いた作品です。
アダムとエヴァの体つきは古代彫刻を思わせる力強さを持ちつつ、そのポーズや表情には、恥と絶望、そして先の見えない不安がストレートに表れています。炎の剣を掲げた天使、荒れた大地、何もない背景といった要素が重なり、観る者は二人の心情に自然と寄り添わされます。
ブランカッチ礼拝堂全体の構成の中では、人類最初の罪と追放を示す「プロローグ」としての役割を担い、その先に続く聖ペテロの物語と対になっています。短い生涯を駆け抜けたマザッチョが、絵画を通して「人間の感情」をどこまで表現できるのかを追い詰めた結果が、この一枚に凝縮されていると言えるでしょう。
フィレンツェを訪れる機会があれば、ぜひサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂で、本物の《楽園追放》と向き合ってみてください。写真では伝わらない、声なき叫びの気配がきっと感じられるはずです。
こうしてまとめてみると、ただの“聖書の挿絵”じゃなくて、完全に人間ドラマだね。
だよな。マザッチョの人生は短かったけど、このアダムとエヴァの叫びは、たぶんこれからもずっと残り続けるんだろうな。


