こんにちは、今回はルネサンスの万能人の一人ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)の人生を解説していきます。
彼が生み出した『ダヴィデ像』や『天地創造』、『最後の審判』といった名作は私たちを魅了しますが、実は彼の人生も同じくらい魅力的です。
彼の才能、苦労、そして成功までの道のりを知れば、彼の作品をより一層愛おしく感じられるでしょう。
さあ、彼の人生の秘密を解き明かしましょう!
このサイトのどこか1記事に、ピンク色のぬいがいるよ!
探してみてね!!
ミケランジェロの簡単な説明
ミケランジェロ・ブオナローティは、ルネサンス期のイタリアの芸術家であり、彫刻家、画家、建築家として活躍しました。
彼は数々の傑作を生み出し、その才能と創造力は今なお称賛されています。
彼の代表作の一つには、システィーナ礼拝堂の天井画があります。
この壮大な作品は、聖書の物語を描いたものであり、ミケランジェロの芸術的な技巧と情熱が存分に発揮されています。
また、彼の彫刻作品として有名なのは「ダビデ像」です。
この大理石でできた彫刻は、ミケランジェロが若干20歳の頃に制作され、その完璧なプロポーションと迫力ある表現力が称賛されています。
ミケランジェロは、芸術の領域だけでなく、建築でも多くの優れた作品を残しています。
例えば、サン・ピエトロ大聖堂のドームや、ローマのカンピドリオ広場の再設計など、彼の建築的な才能も極めて高いものでした。
ミケランジェロは、その創造力と情熱、そして独自の視点によって、芸術史に大きな足跡を残した偉大な芸術家です。
彼の作品は、現代の私たちにもなお多くの感銘を与え続けています。
そんな大天才の人生が知れるのか!!!
楽しみだ!
ミケランジェロの少年時代(0~19歳)
ミケランジェロが0~19歳である1475-1494年のエピソードを簡単に解説していきます。
ミケランジェロ誕生
1474年3月6日(月)の4~5時ごろ、イタリア中部の小さな村であるカプレーゼ村でミケランジェロは誕生しました。
このカプレーゼ村は、ミケランジェロの父が執政官としてフィレンツェから派遣されていた村であったため、ミケランジェロの出身地というわけではありません。
実際同年の3月末に父が任期が終わり、家族でフィレンツェへ戻っています。
お父さん執政官だったの!?
貴族の出身ってことじゃん!!!
そうです。ミケランジェロ自身、貴族出身であることに誇りを持っています。
でも、想像する貴族とは少し違い、生活はそれほど豊かではなかったようです。
ミケランジェロは乳母に育てられた
1476年、ミケランジェロが1歳の時に彼はフィレンツェ郊外のセッティヤーノに住む乳母の元に預けられるようになりました。
なんで急に!!
ミケランジェロの母は、元々身体が強い人ではなかったからです。
次男であったミケランジェロは乳母に育てられることになりました。
それはしょうがない。。。
当時と今じゃ「次男」の扱いは全然違うもんね。。。
乳母の家の家業が石工であったことから、後の大彫刻家ミケランジェロのルーツはここにあると思います。
ミケランジェロの母の他界
1481年、ミケランジェロが6歳の時、母フランチェスカ・ディ・ネーリ・ディ・ミニアート・デル・セーラーが五男を生んだ直後に産褥死で亡くなりました。
身体弱いのに少なくとも5人も。。頑張りましたね。
乳母に育てられているとはいえ、6歳のミケランジェロには耐えがたい出来事だっただろうな。
同年、フランチェスコ・ダ・ウルビーノにラテン語を学び始めました。
これは、当時は父の仕事を子が継ぐのが当たり前だった為、父と同じ執行官になるための必須教養であるラテン語を父に無理やり学ばされてるという構図になります。
ミケランジェロついに絵と出会う
1485年、ミケランジェロが10歳の時、父ルドヴィコ・ディ・レオナルド・ブオナローティ・シモーニが再婚しました。
おめでとうございます♡
この頃、ミケランジェロはドメニコ・ギルランダイオの弟子のフランチェスコ・グラナッチと友人になり絵を描き始めます。
お!遂に天才画家の道を突き進むのね!
そんなに簡単な道ではなく、ミケランジェロには執政官になって欲しい父には大反対されてしまいます。
やっぱそんな甘くないっすよねぇ。
ミケランジェロ絵画の世界へ
1488年、ミケランジェロが13歳の時、彼は父の反対を押し切りドメニコ・ギルランダイオの元に弟子入りしました。
ドメニコ・ギルランダイオは当時のフィレンツェの中でもかなりの規模の工房を持っていた技巧派の画家です。
人生やりたいことやらなきゃね。
しかし、師匠として申し分なさすぎるね!
ドメニコ・ギルランダイオとの契約期間は3年間でしたが、ミケランジェロは約1年でドメニコ・ギルランダイオの元を去ってしまいます。
え!?
何やってんの?飽きた?ラテン語に戻る気になった???
ミケランジェロ彫刻の世界へ
1489年、ミケランジェロが14歳の時、彼はドメニコ・ギルランダイオの工房を去り、サン・マルコのメディチ家の庭園で彫刻の修行を開始しました。
いきなり過ぎない!?
一体どういう風の吹き回し!?
今回は簡単に解説の記事なので、後日アップする詳細記事をお楽しみに。
ミケランジェロの鼻を折られる
1489年、ミケランジェロが14歳の時、上記の通りミケランジェロはメディチ家の庇護の元で修行していました。
そんなある日、友人のピエトロ・トッリジャーノのデッサンを嘲笑ったことでケンカになり、鼻を折られてしまいました。
この時曲がった鼻は生涯曲がったままで、彼のコンプレックスであり特徴でもあります。
税関吏の道へ
1490年、15歳のミケランジェロはヴィア・ラルガにあるロレンツォの邸宅を頻繁に訪れ、彼の心を掴みました。
その後、父のルドヴィコとロレンツォの援助を受けて、ミケランジェロは税関の役人として働くこととなりました。
結局役人にはなるんだね。
よかったね。お父さん。
ミケランジェロの初めての作品
1491年、16歳のミケランジェロは最初の作品である『階段の聖母』を制作しました。
初作品がこの出来!!!
天才だ!!!!
ロレンツォの死と情勢の変化
1492年4月8日、ミケランジェロが17歳の時、ロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなりました。
え!?
あんなに良くしてくれたロレンツォさんが。。。
長男のピエロが跡を継いだのですが、彼ピエロの代はフィレンツェとメディチ家は苦難続きでした。
1494年8月23日に、フランスのシャルル8世の軍隊がナポリ王国へ進軍したことがきっかけでフィレンツェは大混乱に陥りました。
結果的にピエロが追放され共和国が誕生し、シャルル8世のフランス軍を迎い入れました。
ミケランジェロ、ボローニャへ逃亡
ミケランジェロは、1494年10月14日にフィレンツェから逃亡しました。
彼は二人の友人と一緒にボローニャに落ち着き、アルドヴランディ家という名家に寄宿することにしました。
ロレンツォさんとの思い出の地を離れるのは辛かっただろうな。
この時のミケランジェロはペトラルカ、ダンテ、ボッカッチョを読みまくっていたようです。
そして、同年にボローニャのサン・ドメニコ墓碑の『聖ブロクルス』、『燭台の天使』、『聖ペトロニウス』を制作しました。
3つとも、パブリックドメインの画像が見つかりませんでした。
こうして、ミケランジェロ少年の修行時代は終了を迎えます。
この後の彼の人生、どうなるのでしょうか!?
続きは、スクロールすれば見られますぞ。
大人になったミケランジェロ(20~32歳)
ミケランジェロが20~32歳である1495-1507年のエピソードを簡単に解説していきます。
ミケランジェロの詐欺行為
ミケランジェロが逃亡していた間、フィレンツェはフランス軍を迎え入れ、再び平穏を取り戻しました。
1495年ミケランジェロが20歳の時に、彼は平穏を取り戻したフィレンツェに戻りました。
その後すぐに、ミケランジェロは『眠れるクピド』を彫り、古代の彫刻のように見せるように工夫して土に埋めました。
『眠れるクピド』は現在消失していて、失われた彫刻と言われているよ。
この行為は詐欺行為と言えますが、ローマの枢機卿ラファエーレ・リアーリオはその作品を200ドゥカーティで購入しました(そのうち30ドゥカーティがミケランジェロ本人に渡った)。
枢機卿は真実を知ると、『眠れるクピド』を返却し、代金を回収しましたが、この若き彫刻家の素晴らしい技術を見せつけられ、ミケランジェロはローマに招かれ、自邸の客としてもてなされました。
詐欺行為したのに逆に腕を評価されて枢機卿に気に入られるのシンプルに凄いね。
ハッカーがホワイトハッカーになる流れみたい。
将来のパトロンと出会う
詐欺行為と同年の1495年ミケランジェロが20歳の時に、幸運にも彼はリアーリオ枢機卿を通じて将来のパトロンとなる人々との関係を築くことができました。
特に、彼のパトロンとなることになる後の教皇ユリウス二世であるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の知遇を得ることができました。
また、彼は『バッコス』を発注したヤコポ・ガッリやサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』(消失済み)を発注したフランス人ジャン・ビレール・ド・ラグローラ枢機卿とも出会うことができました。
詐欺行為してから人生変わりすぎ。
サン・ピエトロのピエタを制作
1498年8月27日、ミケランジェロが23歳の時、彼はサン・ビエトロの『ピエタ』の制作契約が締結されました。
その後、『ピエタ』用の大理石を求めてカッラーラに行きました。
この作品は制作に1年を要し、総額450ドゥカーティでした。
翌年、作品が完成し公開されると、観客たちは驚きました。
しかし、ミラノの人々が「これはわれらがゴッボ(クリストフォロ・ソラーリ)の作品だ」と自慢げに話しているのを聞いたミケランジェロはショックを受けました。
彼は夜になってこっそりとマリアの帯に自分の名前を刻んだと、ヴァザーリは述べています。
マリアの帯に自分の名前書いたエピソード、人間味あって好き。
ミケランジェロとシエナ大聖堂の15体の聖人像
1501年、ミケランジェロが26歳のころ、後にピウス三世として知られるフランチェスコ・ピッコローミニから、シエナ大聖堂の礼拝堂のために、15体もの聖人像を依頼を受けました。
結果的に1504年までに弟子たちの助けを借りても実現できたのは『聖ペテロ』『聖ピオ』『聖パウロ』『聖グレゴリオ』のわずか4体だけでした。
残りの11体分のお金とかどうしたんだろう!?
また、この年にダビデ像の制作を開始しました。
ミケランジェロと『ブリュージュの聖母』
1503年、ミケランジェロが28歳の時、フランドルの手織物商人のアレクサンドル・モーションの依頼で『ブリュージュの聖母』を制作しました。
この彫刻は、アルプス以北にあるミケランジェロの唯一の作品として知られています。
マリアは、上記の『サン・ピエトロのピエタ』と似ていますが、幼児キリストは非常に堂々としています。
マリアの膝の間に立つ幼児キリストの姿は、ミケランジェロの創造的なアイデアであり、ラファエロの『ひわの聖母』などにも引き継がれています。
ルネサンス三大巨匠の一角から、一角へ引き継がれているんだね!
ミケランジェロと『聖家族(トンド・ドーニ)』
『ブリュージュの聖母』の制作と同年の1503年、ミケランジェロが28歳の時、アーニョロ・ドーニとマッダレーナ・ストロッツィの結婚記念作品の『聖家族(トンド・ドーニ)』を制作しました。
この作品は、ミケランジェロ唯一の版画作品として知られています。
丸い。
丸い額縁に入れたら、雰囲気とても良い。
ミケランジェロと『ダビデ』像
ダビデ来たぁぁぁぁぁ!
ミケランジェロによって制作された『ダビデ』は、1501年から1504年にかけて制作されました。
この像は、聖書に登場するダビデ王を描いたもので、高さは約5.17メートルあります。
大理石で作られたこの像は、ミケランジェロの驚異的な技術と芸術的な才能を見事に表現しています。
ダビデ像の最大の魅力は、その力強さと繊細さの融合です。
彫刻家としてのミケランジェロの技術は、『ダビデ』の筋肉や表情に生命を吹き込んでいます。
一方で、彼の手に持つ石投げの緊張感や身体のバランスも見事に表現されています。
この絶妙なバランスが、『ダビデ』に力強さと繊細さを与えています。
『ダビデ』は、美しい若者の姿で描かれています。
ミケランジェロは、ダビデ王が巨人ゴリアテに立ち向かう勇気と決意を持っていたことを表現しました。
彼の髪の流れや肌の滑らかな質感、完璧なプロポーションは、まさに神話的な美しさを感じさせます。
ミケランジェロは、人間の理想的な姿を追求し、その美しさと強さを『ダビデ』に凝縮しました。
この美と力の絶妙なバランスは、人々の心を打ち、感動を与え続けています。
ダビデってただ突っ立っている人の像だと思ってた!
巨人と戦っている時の像だったんだ!
ミケランジェロと教皇の墓碑~part1~
1505年、ミケランジェロが30歳の時、当時のローマ教皇のユリウス二世にローマへ召集されました。
そこでミケランジェロはユリウス二世の墓碑の制作を命じられます。
サン・ピエトロの『ピエタ』の時と同様に、墓碑用の大理石を求めてカッラーラに行きました。
結果として、ミケランジェロは4年間費やしていましたがこのプロジェクトはユリウス二世により中断されました。
うそぉ!?
4年もかけていたのに中断!?ひどいよ!
教皇の考えが、生きている間に死んだときの準備をするのは縁起が悪い、生きているうちに使う部屋を素晴らしいものにしようというものに変化したらしいです。
権力者の気分で仕事が変わるの辛いよね。。。
ん?使う部屋を素晴らしいものに???
なんだその部屋?
ミケランジェロは教皇専属の芸術家!?
ミケランジェロが33~52歳である1508-1527年のエピソードを簡単に解説していきます。
ミケランジェロとシステーナ礼拝堂の天井画
1508年、ミケランジェロが33歳の時、彼はユリウス二世よりシステーナ礼拝堂の天井画の制作を命じられました。
ミケランジェロ自身、自分は彫刻家であり絵画の仕事は管轄外だと思っていましたが、相手がローマ教皇のため逆らうわけにもいかず制作を始めました。
本作の制作にあたり、かつての工房の6人兄弟弟子たちに協力を依頼しました。
しかし、絵の出来に不満を持ったミケランジェロは、直ぐに6人の助っ人のすべてを解雇しました。
ということは、全部自力で描いたってこと!?
また、この絵の制作中のミケランジェロはお金にも困っており、彼の父に「製作途中の段階は教皇からお金を一切受け取れていない」という旨の手紙を送っていました。
システーナ礼拝堂の天井画自体は1512年、ミケランジェロが37歳の時に完成し、万聖節の前夜である10月31日に除幕式が行われました。
独りで4年で仕上げたの!?
凄いな!!!
ミケランジェロと教皇の墓碑~part2~
1513年、ミケランジェロが38歳の時、当時の教皇ユリウス二世が死去しました。
ユリウス二世は遺書で墓碑のシステーナ礼拝堂の天井画に取り掛かる前にミケランジェロに依頼していた墓碑の制作の再開を依頼していました。
それを尊重したユリウス二世の相続人は改めて、ミケランジェロと墓碑用の作品『奴隷』2体と『モーセ』を作成する契約を結びました。
最大のパトロンだった人のお墓だもんね。
凄いのができそう!!!!
そんなに上手くはいかないです。。。。
これが完成するのは1545年です。。。
32年後!?
ミケランジェロと訴訟の日々
ユリウス二世の死後、後継の教皇たちはミケランジェロに自分たちのために仕事をしてもらいたいと考えていました。
しかし、墓碑の建設はなかなか進まず、遺族たちとの間で泥沼の訴訟が続きました。
この訴訟はミケランジェロの一生を苦しめることになりました。
休ませたげて(´;ω;`)
メディチ家を裏切る!?
1527年、ミケランジェロが52歳の時、神聖ローマ皇帝の傭兵隊がローマを襲撃し、いわゆる「ローマ劫掠」が発生しました。
教皇クレメンス七世は、要塞化された居城であるサンタンジェロに避難しました。
この機に乗じて、フィレンツェでは民衆が蜂起し、メディチ家を再び追放して共和国政府の樹立を宣言しました。
愛国心の強いミケランジェロも革命軍に参加しましたが、少年時代からメディチ家の庇護を受けてきた彼にとって、これは一種の裏切り行為でした。
時代も動くねぇ。
お世話になったメディチ家を裏切る形になって、ミケランジェロも辛かったろうな。
ミケランジェロと新時代
ミケランジェロが53~66歳である1528-1541年のエピソードを簡単に解説していきます。
革命軍築塞総監督ミケランジェロ
1529年、ミケランジェロが54歳の時、軍事九人委員会のメンバーに選ばれ、四月には革命軍築塞総監督に就任しました。
彼が描いた要塞建築計画のスケッチは23枚残されていますが、それらはすべて大型の弾道と射程を考慮に入れた、幾何学的で美しいデザインとなっています。
彼は一時的に身の危険を感じて再び逃亡したりもしましたが、戻ってきてからは再び軍事技師としての才能を発揮し、フィレンツェを9カ月間も守り抜きました。
まさかミケランジェロが革命軍でも偉い人になるとは思わなかった。
革命終結とミケランジェロの処遇
1530年8月、ミケランジェロが55歳の時、皇帝と教皇の連合軍によって革命政府は倒され革命は終結、市内では粛清が始まりました。
ミケランジェロはメディチ家礼拝堂の地下に潜み、暗闇の中でひたすら壁面にデッサンを描き続けました。
やがて復権したクレメンス七世に赦され、メディチ家礼拝堂の制作を再開しましたが、街では共和国政府と共に戦った仲間たちが処刑される様子が続いていました。
ミケランジェロは赦されて良かったけど、仲間たちが処刑されているのは悲しい。
また、翌年1531年に父ウドウィコが亡くなります。
ひーん
ミケランジェロの心が心配。
ミケランジェロと『最後の審判』の依頼
1533年、ミケランジェロが58歳の時、教皇クレメンス七世から、システーナ礼拝堂の入り口側に『叛逆天使の堕落』、祭壇側に『最後の審判』を制作するように命じられました。
『叛逆天使の堕落』は翌年1534年に計画自体が無くなります。
1535年には新たな教皇のパウルス三世に教皇庁主任の建築家・彫刻家・画家に任命されました。
革命の時もだけど、肩書がいかつい。
『最後の審判』を制作
1536年、ミケランジェロが61歳の時、『最後の審判』の制作に着手をしました。
システーナ礼拝堂ってことは、天井には30代の時に描いた天井画があるんだよね。
1540年に壁画上部が完成します。
ミケランジェロと『最後の審判』
1541年、ミケランジェロが66年の時、製作途中に足場から落ちて怪我をしてしまうなどトラブルはありましたが『最後の審判』が完成しました。
『最後の審判』については、後日詳細を別記事で解説予定!
ミケランジェロの晩年
ミケランジェロが67~88歳である1542-1564年のエピソードを簡単に解説していきたいのですが。
記事が長くなってしまったので、今回はここまで!!!!!
まとめ
ミケランジェロの生涯や作品についてはまだまだ語り足りない部分がありますが、本記事ではその一部をご紹介しました。
彼の作品はただ美しいだけでなく、その深い意味やメッセージを持っています。
彼の芸術に触れることで、私たち自身の感性や人間性について考えさせられることでしょう。
コメント
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