机の上に分厚い聖書が大きく開かれ、横には黄色い小さな本。
奥には火の消えた燭台が静かに立つ——。
1885年のニューネンで描かれたフィンセント・ファン・ゴッホ《聖書のある静物画》は、画家の内面史をそのまま卓上に置いたような一枚。
牧師だった父の死の年に、彼は“信仰の象徴”である聖書と、自分が貪るように読んだ現代小説を同じ画面に並べました。
派手さはないが、厚い絵肌と限られた色で、人生の重さがじわりと伝わってきます。
画面には父の遺品である大きな聖書、その横に黄色い小冊子(一般にエミール・ゾラ『生の歓び / La joie de vivre』と解釈されます)、そして灯っていない蝋燭が置かれています。華やかさはありませんが、信仰と現実、過去と現在が同じ机上で向かい合う緊張が、ひっそりと強く伝わってきます。

モチーフは3つだけなのに、物語がめっちゃ濃い。
置き方と光の当て方だけで、思想まで語ってるタイプの絵だね。

聖書のある静物画
まずは作品のデータを簡単にご紹介します。

- 作品名:聖書のある静物画(Still Life with Open Bible)
- 制作年:1885年
- 制作地:ヌエネン(オランダ)
- 技法/サイズ:油彩・カンヴァス/約66 × 79 cm
- 所蔵:ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

まず“骨組み”を知ってから本文読むと、理解が早いね。
うん、データは地図。次にルート(読み方)だよ。

ニューネン期の文脈と父の死
この年、ゴッホは《ジャガイモを食べる人々》を完成させ、農民の生活を暗いパレットで描く探究を極めた。
同時に、3月に父テオドルス(牧師)が急逝。画家は信仰の家に生まれ、若い頃は伝道者を志したが、結局は絵の道を選んでいます。
《聖書のある静物画》は、その“岐路の記憶”を、身近な遺品と自分の読書体験に託して卓上に再構成した作品と受け取れます。

人生の分岐点をモノで語ってるってことか。
そう。人物を出さずに、物だけで感情の厚みを出してるのが凄い。

制作背景|父の死と「二冊の本」
1885年3月、牧師だった父テオドーラスが急逝します。数か月後、ゴッホは父の聖書を机に開き、その隣へ自分が読んでいたゾラの小説を置いて描きました。
聖書は家族の信仰と記憶の象徴、ゾラの本は現実へ目を向ける近代的な視線の象徴です。さらに、火の消えた蝋燭は父の不在や一つの時代の終わりを暗示するとよく解釈されます。
開かれているページはイザヤ書53章(受難の僕)と広く言われます。葬儀で読まれることの多い箇所で、父の死と絵のトーンが静かに重なります。

対立じゃなくて“同じ机の上に並べた”ってところがエモい。
そう。手放すんじゃなく、受け継いで読み直すって発想ね。

黄色い本=ゾラ『生きる歓び』と“現代の声”
聖書の手前に置かれた黄色い本は、エミール・ゾラの『生きる歓び』(1884)の判型で理解されている。
ゾラは当時の“いまここ”を描いた自然主義の作家で、ゴッホは熱心な読者でした。
聖書とゾラを並置することで、永遠の言葉と現代の言葉、祈りと日常、父と自分を一枚の机の上で対話させています。
対立だけではなく、両者が互いに照らし合う関係として置かれているのが、この絵の成熟です。

聖書VS小説じゃなくて、並べて“共存”させてるのがいい。
だね。どっちも彼の血になってたってこと。

色彩と筆触——“土のパレット”で掘り起こす量感
ニューネン期特有の暗い土色(アンバー、オーカー、深い緑)が主役で、光は限られています。
白く反射する聖書の縁、蝋燭台の金属の鈍い輝き、黄色い本の表紙だけが画面をわずかに明るくします。
厚い絵肌が本の重さ、紙の張り、布装の摩耗まで触覚的に伝え、卓上に確かな“重力”を生むようです。

静物なのに、触ったら指にざらっときそう。
その“触覚”がゴッホの武器。量感で語らせてる。

構図と視線誘導——斜めの置き方が生むドラマ

大判の聖書を斜めに置くことで、ページの透視が奥行きをつくり、視線は自然に中央の綴じ目へ集まります。
右奥の燭台、手前の黄本が対角線上に配され、三点が三角形を組みます。
“読む行為”に入る前の静けさを、静物の幾何学で支えている構図です。
- 主役は左手前の大きな聖書。分厚い革表紙と、光を受けたページのハイライトがまず目をつかみます。
- 準主役は右手前の黄色い小冊子。小さいのに色で主張し、聖書と対話させます。
- 象徴は右奥の燭台。小さいが意味は重く、消灯することでコントラストを抑え、奥行きの静けさを作ります。
この三点を結ぶと、鑑賞者は「信仰を読み(聖書)→現実を読む(ゾラ)→時代の灯りを確認する(蝋燭)」という順に絵を体験します。

ほんとに目がその順で動く。設計うますぎ。
視線誘導は作曲に近い。鳴らす順番まで決めてるんだ。

色彩と筆致|土色のパレットに響く“少量の黄”
ヌエネン期らしく、アンバー・オーカー・深緑・黒といった“土の色”がベースです。背景をほぼ黒に沈め、ページの黄白と小冊子の黄だけを強く響かせています。
筆致は短く方向性があり、紙の繊維、革の厚み、テーブルクロスの起伏をストロークの向きで描き分けています。厚塗りは要所に限定し、ページの光沢や角の摩耗だけをほんの少し盛ることで、質感の説得力を高めています。

色数は少ないのに、情報量がすごいのはそのせいか。
色を絞ると、ちょっとの“黄”が鐘みたいに鳴るんだよ。

作品の意味|「決別」ではなく「継承と更新」
《聖書のある静物画》は、信仰を捨てた宣言ではありません。
聖書は開かれたままで、読み続ける姿勢が示されています。その横に近代文学を並べることで、受け継いだ光(信仰)を、現実を生きる光(文学・芸術)へ接続する意志が読み取れます。
消えた蝋燭は「光の交代」を穏やかに告げるサイン。断絶ではなく、静かなバトンパスです。

閉じた本じゃなく“開かれてる”のがミソね。
そう。“読み直し”の宣言だと思う。

同年作との呼応——《ジャガイモを食べる人々》の“もう一つの顔”

同じ1885年の《ジャガイモを食べる人々》は、労働と食事のリアルを描く群像でした。
対して《聖書のある静物画》は、言葉と沈黙、過去と現在のせめぎ合いを机上で語ります。
どちらも“美化”を拒む姿勢は共通で、生活の真実と向き合うために暗いパレットを選んでいる点も同じです。

外の現実(食卓)と内の現実(心の机)って感じで対になってる。
まさに。二枚合わせて、ニューネンのゴッホが見える。

関連知識と豆メモ
- 黄色い小冊子は表紙の書き込みからゾラ『生の歓び』(1884)と解釈されるのが一般的です。
- 聖書ページの章は諸説あるものの、イザヤ書53章とする見解が広く共有されています。
- 同年の《ジャガイモを食べる人々》と同じく、暗いパレットで生活の実感を描くヌエネン期の表現がよく表れています。

ヌエネンの“土っぽさ”がここにも通底してるんだ。
うん、後の鮮やかな色を支える“地力”だね。

来歴と現在の評価
作品は現在、アムステルダムのゴッホ美術館が所蔵。
初期ゴッホの代表的静物として展示される機会も多く、宗教画でも文学礼賛でもなく、個人的体験を普遍化した“精神の静物画”として読まれています。
簡素なモチーフでここまで深い時間を描けること自体が、この画家の稀有な力なのです。

物が三つしかないのに、世界が広がるのすごい
引き算の強さ。だから時代を超えるんだよ

よくある質問(FAQ)
Q. 黄色い本は確実にゾラですか?
A. 断定はできませんが、表紙の表記や当時の読書状況から**ゾラ『生の歓び』**と読むのが一般的です。
Q. どの章に開かれていますか?
A. イザヤ書53章と考えられますが、活字の読解には議論があり、確証は限定的です。
Q. どこで見られますか?
A. ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)所蔵です。展示替えや貸出があるため、訪問前に公式情報の確認をおすすめします。
おすすめ書籍
「ゴッホについて本で学びたいけど、どんな本が自分に合っているのかわからない」そんなお悩みを持つあなたへ贈る、ゴッホ入門編の本をご紹介します!Top5は別記事で紹介しています。
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まとめ|静物という“静かな宣言”
この絵は、父から受け継いだ光と、自分で選ぶ光が、同じ机の上で手を取り合う瞬間を描いています。
ゴッホは派手な小道具を使いません。開いた聖書・黄色い本・消えた蝋燭——ただそれだけで、人生の節目を語り切っています。静物でここまで語れる、ゴッホの“構成力”と“誠実さ”が光る一作です。
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派手さはないのに、あとからじわっと効いてくる。
机の上に置いただけで人生語るとか、やっぱ只者じゃないよね。
